「シカタガナイ」
この言葉を自分の辞書から追放しない限り、日本人はより良い暮らしを、より自由な人生を手に入れることはないだろう ―
カレル・ヴァン・ウォルフレン の主張。
彼は311のずっと前、1990年代(あるいは80年代)からこのことをずっと言ってきている。
今更だか、今だからか、物凄くこのことが気になっている。
これは、彼が外国人だから言えることだろうか?
お盆のあたりからこのことを意識している。おかげでブログの更新が滞ってしまった、というのは半分嘘にしても。
というかこれは自分にとっても、とてつもなくハードルが高い。「仕方がない」「しゃあない」と思わずに、オレはこれまで生きてこれただろうか?
ウォルフレンは、この思考がある種「成熟した証拠」とされる日本社会が、いかに上手に市民の疑問や政治的行動を初期段階で抑制してきたかを説いている。
自分の周りにある「リアリティ」と自分が感じる「リアリティ」が整合しない状態が続くと、やがて人は状況にはまりこんでしまう。ここで生まれる言葉が「シカタガナイ」だという。
たとえば、矛盾だらけで突っ込みどころ満載のニュースが毎日毎日報道され、それが一~二年もすればすっかり何もなかったように忘れ去られてしまう。また、それを待っていたかのように、おかしな施策が「肯定」されてしまう。
あれ、おかしいぞ、と感じていた人も、やがてこの言葉と共に、おとなしくなっていく。
「シカタガナイ」
これは危ない。とてつもなく危ない。直感的にもそう思う。
一方で、自分が「しゃあないやろ」と言って物事を切り替えながら生きてきた経験ってなんだろう。
つまらないことなんだろうか。或いは「シカタガナイ」には、昇華と自粛のように、いくつか種類があるのだろうか。
わからない。こう思うこと自体が、自分がトラップにはまりこんでいる証拠なんだろうか。
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ひとつだけ感じたことがある。これは、ある種の灰色の青、グレーをまとったブルーみたいなものだ。
a kind of blue grey
これがブルーズだなんて言いたくない。だけどある意味これが僕らが向き合うべき、ブルーズなのかもしれない。