先日からのバリー・サンダースの本と
その前の王羲之の話と
みのまわりを
照らし合わせて
考え直しをせねばならぬ
デジタルは すべて計算機による変換を要するから アナログやアコースティックから遠い
ということを書きとめたあと
口語、口承のみによる言葉と
文字による言葉(識字のはじまり)を考えると
ある意味、文字=デジタル信号なんだと気づいてしまった。
いや、さらに遡れば、音声による言語もデジタル記号の一種なのかもしれない
文字を読み、それを連結し、意味の通る言葉として再生するまでには
頭の中でかなりの計算がなされている。
この速度を限りなく速くして、レイテンシーを感じないレベルまで上げたところで
識字社会が成立している、
アナログやアコースティックも振幅からの変換を要するけれども
それ自体に複数の意味をパッケージし、現実とパラレルに進行する文字や音節っていったい。
やっぱサンプリングソースなのかなぁ。
敗北感。
ただし。デジタル信号はバラバラにぶったぎったon or offからの再構成であるから
文字はそれより遥かに複雑な計算を要している。
あるいは語感が意味を先行することがある。
人間に理解しやすい言語はマシンに理解しにくい。
マシンに理解しやすい言語は人間に理解しにくい。
ここに救いがあるのかな
機械と張り合ってもしょうがないねんけど。
で、こないだの王羲之の文字を輪郭を取りながら徹底再現試みてた人は、
端的に言えばフォントを作ってたんだろうね。
それ自体に「美学」を感じるサンプル素材を。
「素材」って言葉、僕は嫌いなんだけど、
料理の素材。建築の素材。紙質。テクスチャ。
すでに付き合ってるってこと、理解しなきゃいけない。
人がみんな、フォントを選ぶように、フォントと戦うように、
ループやインストゥルメントを選んでる。
選び取ることの繰り返しで、もっと重なり合う美学。
そりゃぁ、そうかもしれない。
でも、「選び取れない」要素が重なり合うこと。
これこそが、僕らを前に進めてくれると、やっぱり思うけどな。
だって、理解できる事しかこの世になければ、明日を生きる希望も何もない。