「出る杭でも打たれない」絵本作家五味太郎に聞く1~(佐藤智子)
ふと読んだインタビュー。五味さんの思いつくままに話が進んでいくので、見出し以外にも解釈の余地は色々あると思い、メモ。
『「勝った」「負けた」っていうようなことは、疑似的な遊びの世界だよね。 』
このあたり鋭いと思う。
A 綱引きなんていうのは、あれは冗談なんだよ。一緒になんて。でも、心合わせてって、引くっきゃねえよ。勝とうってやっているやつだから。そうでしょ?
Q そうですね。
A みんなのために頑張っているわけじゃないのよ。だから、頑張っていないやつも参加する形になっているわけ。「綱があります。引っ張って競技するんですよ」って。
Q はい。
A ね? 「やる人?」って、「あんま、やる気ねえな」って(笑)、まず本音であると思う。でも、しようがない。で、やる。でも、「相手は敵なんだ」って思う。でもさあ、「近所でよく会うやつだなあ」と思う、「あの人、敵じゃないし」って。でも、一応始まって、こっちが紅組、こっち白組。「白組と紅組と戦うことにしようよ」って一生懸命言うわけ。そうすると、割とその気になる。で、引っ張ってみると、結構その気になるもんで、ズルズルやると、ちょっとムカッと来るから、懸命に引っ張ったりするわけ。それで、「勝った」「負けた」っていうようなことは、疑似的な遊びの世界だよね。
Q うーん。
A 終わった後には、ノーサイド。で、「商店街のおやじと本気で闘ったから、もうあそこにはぜったいに買いに行かないぞ」なんて話じゃないよっていうわけ。ここでは疑似の話をしているわけ。疑似競争。ところがそればっかりやっているわけよ。
Q 疑似なことを。
A そう。
Q 「〇〇(なんとか)しましょう、〇〇(なんとか)しましょう」みたいな形で。
A そう、それを設定しているのが教育のシステムっていうことなんだよ。
Q そしたら、自分のオリジナルというか、やりたかったことややるべきことがわからなくなる。
Aそう、全然わからないやつがずっといて、能力は、唯一「付き合う」っていう能力がつくわけ。賢いやつは、どうやって付き合ったら自分がまあまあ楽なのか、生きていけるのか。
なんだかハッとするのは、こうやって、擬似的な戦いを生まれた時からいつもやっている(或いはやらされている)のが僕らだということ。
これが、いつも擬似であればいいだろ、と思うが、擬似の裏側には現実の犠牲だってある。
並行して、擬似と現実の垣根も、壊れて来ている。
或いは、本当に戦争指導してきた人々も、昔っからこれぐらいの気持ちなのかもしれないな、とも感じてしまう。
「敵国」とも戦ってるふりから始まり、やる気のない人をうまく動かし何百万人も犠牲を出して、当人たちは痛くも痒くもない。
そもそも、自分たちのやっていることがわかっていない。世襲だから、慣習だから、なんとなく - そんな Universal Soldier*。
恐ろしくなる。吐き気がする。だが。
「敵味方」という概念は、どんな平和主義者からも、たぶんなかなか消えるものではないのだろう。生まれたときから深く染み付いているのだから。
しかしその一方で昔から、人々にとっては「敵」も「味方」も所詮フェイクで、それと(意識的あるいは無意識的に)付き合ってきたというのなら。
その切り替えにこそ、「危険な時期」を乗り切るヒントがあるのかもしれない、とも思うのだけれども。
* Universal Soldier – by Donovan