今回は暗いですよ。
ジョージ・オーウェルが晩年、病と闘いながら完成させた「1984年」
やっとまともに読んでみたのだが
救いがある…と期待しつつもページが進み、やがて。
「救い」はなかった。
なかった? なかったな。
一部、二部、三部でそれぞれ違った「生きる屍」になってしまう主人公、たち。
壱: システムの中の屍である事に気づく…しかばね
弐: 泳がされた自由の中で気づきすぎる…しかばね
参: 肉体と心を潰されて気づかなくなる…しかばね
どれになりたい? どれもなりたくないで
まともに受け止めることの難しい、最後に狂ってしまう=「正常になる」「救われる」
そんなメッセージ。
直接のモデルはスターリン時代のソビエト連邦であるけれども、
それはオーウェルがインドやビルマ、バルセロナで見たもの、人生をかけて体験したものから
来ているのだろう。
状況を超えて、胸を打つ。
胸を打つどころではない。デジャヴがありすぎる。
「ゴールドスタイン」=金の石、の偽書に記された、
システムの支配に関する解析は見事にできている。
あれはガス抜きであるばかりか、それを知らせた上での絶望をもたらすのだが。
あれを参考にした人は沢山いるだろうな。
完璧な全体主義を実現し、永続させるために
人間の尊厳も、自然科学も、歴史も、愛も徹底的に壊す方法。
それは一方、よかれと思って、みんながやっている事によって、まっしぐら。
寝言まですべてが筒抜けで、24/07で指令される「テレスクリーン」がどこにでもある世界。
もうそうなってる、というか、仕事も日常も、onもoffもみんな進んでそうやってるね。
とてもソフィスティケイトされた、SNS世界。
ボランティアという名の自己責任。よーやるよな、と思う。
インターネットは元々軍事用だった、
つまりは最終的にもそうだということを、僕は忘れるつもりはありませんが。
ちなみに1Q84とは響きが同じで全く違うけれども(引用だろう)
同じくパラレルワールドを扱った作品、ということで比べるとすると
あれは中盤のわくわくを、そのままに救いに持ってきてくれるのに対し
1984は敗北を徹底的に記している。
でも、そんな世の中で、生きなけりゃいけない、とすれば
生き急ぎたくもなるさ。
生き急ぐ事もできない、永遠にもなれない、最後の人間。
I’m so tired of the Omegaman
– album “Ghost in the Machine” 1982 – Andy Summers
最後の人間にも、なれなかった、それは誰のことだろう?
たまらなくなるけれども、アツコバルーさんのこんなブログ を読んだりも、する。