ぼくは元気に暮らして居るけれど…
熊本のこと、大分のこと、中央構造線のこと…
一言で表せない辛い気持ちと不安がとまらない。
ぼくにとって直接の知り合いは flexlife の一行だから、彼らのことを最初に思うけれども
きっとこれから会うだろう、たくさんの人々が辛い思いをしている。
ネット普及前にしか会っていない、そんな知人もきっといる。
今年もこれから、訪熊を二度予定しているし、そこで会える人に
音を届けられるだろうか、何か手助けできることはあるのか、
足手まといになってしまうのか。
何が解決で何が支援なのか。自粛ってなんだろう。コミュニティって、避難って、なんだろう。
このタイミングで激甚災害の指定もまだせずにTPP審議を優先していることは、国に頼りなさんな、と公言しているようなものだし、呆れを通り越して苦沙味すら出てこない。
被災している人にとっては、一刻が何年にも思えるのではないですか?
川内原発については、再稼働の条件であった「事故時の高速道路や新幹線による住民避難、近隣県での受け入れ」が震災によって既に不可能になっているのだから、まず、直接受けている揺れや採算上の思惑に関わらず、現時点でとっくに稼働条件失格だと思うのですよ。
川内に何かあってからでは全く遅い。制御できない。そのことはわかっている筈でしょう。もちろん、何もないことを願うばかりだけれども。
Police の Synchronicity II に
“Packed like lemmings into shiny metal boxes.
Contestants in a suicidal race.”
というリリックがあって
これは東京の地下鉄ラッシュで犇めき合う人々と同じような例えなのだろうけど
レミング的に破滅競争をするような、そんなところが
日本のシステムにはあるような気がしてしょうがない。
Sting が当時、日本を題材にしたかどうかなんて知らないし
こんなことは日本だけでなく万国共通、歴史上も何度も繰り返された失敗だとは思うのだけれど
– あるいは負の Synchronicity か –
危機のときに、指導層が対策を誤るのは非常に危険です。誰にとって? みんなにとって。
保身や面子で人を切り捨てる人、たくさんいます。
軽くなりたいんでしょうね、「蜘蛛の糸」のように。
芥川はどう思って書いたのだろう。新自由主義の人はどう思ってビジネス本を書いているのだろう。
ところが悲しいかな、それはおそらく人間のサガでもある。
どんなエリートだって間違いは起こす。保身はする。
だから、互いに平衡にバックアップしていかなければならない。
「グッドストライプス(いい感じの平行線)」でもいい。
くっついて盲目になってちゃ、危険は増すばかり。
灯台下暗し、の陰が大きくなるばかり。
たとえば、音の世界でもバランス転送ってあるでしょう。マイクに挿さってるあれ。XLRってやつ。螺旋に組んだケーブルに逆位相で信号を流し、それをミックスする事でノイズをキャンセルする。
生命を繋ぐDNAだって、このケーブルと同じように、螺旋構造をしている。
こういうのって、意識の、また無意識の知恵だと思います。
右、とか、左、とか言ってる人達も、本当ならば、互いにバックアップしなければいけない。幸せに人生を送りたいのは、きっと同じなのだから。
数年前に観たNHK特番「原爆投下 活かされなかった極秘情報」。B29がファットマンを積んで長崎に向かっていたとき、陸軍情報部がその動きを事前に知りながらも御前会議ではまるで違う議題に終始、九州の迎撃隊に出撃命令すら出されなかった、ということが明らかにされた。老いてそれを知った紫電改の元パイロットは、落胆しきった表情で言う。「これが日本の姿ですかね … こんなことを許していたらまた起きるんじゃないですか?」
どうなんですか?
せめて、これからはそんなことを起こさないでほしい。
そう思うのは、おかしなことなのか。
眠れたのが不思議だ。
熊本、大分の皆さん、どうかご無事で。