「日本辺境論」一昨日読み終える。
「石火之機」
「天下無敵」
「自分からはみ出して」…一体化する
などの「機」に関する章、興味深かった。
レーテンシー云々を無意味化する、時間、空間の再構成能力というのは
本来日本人が鍛え上げて来たもののひとつ、
と解釈してよいのだろうか。
なーんとなくわからないでもない。
「歳を取ると一年が短く感じる」と「真剣白刃取り」の関連が
それまでの全経験に対する比率、新鮮さとして説かれている。
真剣が振り下ろされた瞬間に「生まれ」た武道家が
起こった全てのことをスローモーションで繋げ、処理してしまう。
確かにそうかも。
凄いインプロヴィゼーションと共にあるプレーヤーは
ある意味、生まれたばかりの状態にあるのだと思う。
野球人が時折口にする「ボールが止まって見える」もたぶん同様。
一球ごとに生まれるのなら、彼らの人生も相当面白そう。
しかし
経験ある「師」に対して若い「弟」は時間感覚で優れたとして
ならば経験の意味は何か。
僕はこじつけながら、こう思う。
経験、または、「型」や「蓄積」が
ある時生まれた(閃いた)もう一人により参照される
同一人物の中に老人と若者が同居しない限り無理な話だ。
たとえば谷川俊太郎さんのような人がいつまでも若く見えるのもそういう事ではない?
気の遠くなる時間が生成したガソリンをクルマの新しいエンジンが一瞬で爆発させる。
ピアノを習う人が意味がわからないまでも繰り返したバッハが、ある日弾けるようになる。
それがブレークスルーではないかな。