新元号と私の名の響きが似ていることから、好意のコメントをくださった方々に感謝しつつ、以下は僕の感想です。
零の性格を知らない人は読まない方がよいかもとお断りし、つつ、です。
元号自体にはあまり興味はない。これからも西暦を使うだろう。
というより事前のマスコミ報道を漏れ聞きしている限り、元号なるものを使って何かを操ろうとしているような空気に近づきたくもなく、
ちょうどそれを発表するとかいう時間11:30付近は、電波関係を止め、楽器を転がしてスタジオまでひらすら歩いていた。
スマホをポケットでおとなしくさせ、商店街のTVを見ない。ただ、荷物を持って歩くと言う行為に「戻る」。
どんなひどい元号になっても、気を確かに保とうとする。そんなこと考えなきゃいけないなんてな。
スタジオに着くと、周囲の仲間が妙な反応で、こんな名前の元号だとネタにするので、
は? れいわ? 零和元年? 流石にこの漢字はないが、命令の令に昭和や平和の和だという。
戦争と平和 - 十七条憲法 - みたいな印象。
律令という言葉があるが、日本的といえばそうだな。中央集権と和。
大和朝廷の成り立ち。
いくらでも解釈は可能だろうが、上からの命令や指令で統制して和が保てるのか、というと古くさい。
日本が愚かな戦争をして、愚かな敗北を喫したこと(それをギリギリまで民に知らせなかったこと)
敗戦後に割り当てられた世界の下請け工場としての地位を使って、高度成長だ経済大国だと頑張ったが、その役割を終えて衰退してきたこと
3.11を東京の祭りで覆い隠そうとしていること
決定的なイノベーションを起こせないこと
そんな理由でもあると思うので、
ここに原点回帰してもいかんだろ、みたいな感想も免れない。
令って音楽につながるかなぁ。律令なら、律の方が音律、旋律にも通じるから、よかったのかもしれない。
まぁ、なんとでもいえる。
しかしこの響きに「れい」が入っていて、すごく気恥ずかしかったりするのは
自分に関係がなくとも、しゅっとしとこうか、みたいなところなのか。
この感覚は、ポジティブに捉えておこう。
でもたとえば昭和の時代に「しょう」さんや「あきら」さんが
どう思ってたか、と考えると、どうなのか。
別になんてこたないんだな。
それから、ニュースの騒ぎはこれからも見たくない。
なんにせよ、集団フィーバーみたいなものは、僕は好きではないのだ。
万葉集の元になった漢詩の意味がとても興味深いが、読み間違えもあるようで鵜呑みにできぬ。
誠にミュージシャンらしくない性格で、厄介の極み失礼つかまつる。
平和が続きますように。あたらしいこと、ふるいことに自由に目を向け、考え、個を大切にすることで周りも明るく、また暗きものにも小さな輝きがあること、光がないところにも音が溢れていることの素晴らしさを感じられるときでありますように。