いつものように時代のタイムラインをジグザグに走る自分。
中曽根康弘の「命の限り蝉しぐれ」を読んだ。
一カ所、とてもいい事が書いてあった。
禅にまつわることだ。
自分の尻の下、遥か地下から繋がっている意識を持つ。
これによって、何事にも動じない、ある種の悟りが得られる事があるという。
その他、とても賛同しかねる事が「何事にも動じず」に綴られていたが
こういう意見を読むのも良いだろう。
集団的自衛権、憲法9条の無効化は、何も今始まったことではなく
中曽根氏や小泉氏、そして共著の竹村氏が高らかに押し進めて来たものだった。
だからこそ、根深く、厚く高い壁に囲まれている。
だが、それが軍需産業と軍需利権勢力の為だということも
もうとっくに明らかになっている。
この読者にとっては、とても古い考え方だ。
国民は権利を言うだけで義務を考えない、
だから憲法も教育基本法も改正すべきだ、というのが中曽根氏の主張だった。
思わず、吹いてしまいそうになった。
彼ら権力者は、誰が払った税金で生活しているのだろう?
権利ばかりを言うのは誰だったか。
国民よりも、金を動かす者たちだった。
自由というのは言葉のトリックで、利益は強者に噴水落下的に誘導されるようにできていた。
そして、取られている者は、不思議な高揚感でそれに気づかない。
酒の蒸留生成システムみたいに、ほんとに上手く出来た仕組みだったと思う。
「自由」主義経済というのは。
そんなものが、みんなが好きでたまらない「自由」なのか?
違う。だがとっても聞こえがいい。
— ここまで念頭において、現在そして近々未来をも見渡す必要がある。
新撰組だの武士道精神だのが日本の魂だという主張。
その一方で、戦争に負けた相手の為に、必要ない戦いまでやろうとするのはなんでだろう。
愛国心、戦いなどと勇ましく言うのなら、相手は誰だったのだろう?
日本はどことの戦争に負けた?
それがどうして、保護者の掌で、仮想敵のロールプレイング幻想を見てるんだろう?
どうやら、三蔵法師の掌並みにすごく厚い壁が、存在するようだ。
僕はアメリカという国が基本的に好きだし、様々な問題を抱えつつも大きな文化、
フィールを生み続けるあの国を全否定するつもりはない。もちろん全肯定ではない。
いいところも、悪いところも、いっぱいある。
学べるところも、協調できる人も、まだ知らない事も、知らなければよかったと思うようなことも。
だが彼らのシステムが世界を壊しつつもあることは、日本にいるからこそ、判ることでもないのかな。
戦争依存症。あまりに強大な独占企業。後戻りの出来ないテクノロジー。繋がりすぎる端末とビッグデータ。個性という名の画一マーケット。
そこに目をつぶり、従い、責任転嫁を繰り返す日本のシステム。
日和見繰り出す。全部、妖怪のせいだよね、そうだよね?
(あの歌、確かにキャッチー)
武士道を言うなら例えばの話、そういう人たちは赤穂浪士に倣う気などあるのだろうか。
戦争は人を大量に殺戮し合う事であり、どんな大義名分を掲げても最高レベルの犯罪に違いない。
国の規律を求めている側が、いざ戦争となったらいくらでも犯罪を奨励し、
まともな人権感覚を維持しようとする民衆を抑圧するというのは根本的におかしい。どう考えても。
だが歴史はいつもそうやってきた。
「花子とアン」をちら観してもわかること。
武士道などを言うのであれば、
止むに止まれず戦いに臨んだというのなら、
勝ち負けに関わらず、世界に騒ぎを起こした罰として、責任者が全員切腹する、
それくらいの覚悟が「日本の」精神と違うのか、と、素朴に思う。
もちろん、仮の話。
いや、そもそも「勝ち」も「負け」もないのだ。人を殺して喜ぶ。殺されて嘆く。
愚かだろう、なんでそんなことしなきゃいけない?
戦争を起こした者はすべて罰せられる。
罰でしか人は動かないと思っている人たち、
そこをスルーしての「規律」や「義務」など、永遠に亀にもたどり着かない。
中曽根氏は、3.11後に反原発、太陽光奨励に転じていた筈。
そこは現担当者とは違っていた。
共著の竹村健一氏は、3.11後に、興味深い発言をしている。
「マスコミが、芸能ネタなりスキャンダル事件を連日連夜、執拗に報道している時は注意しなさい。国民に知られたくない事が必ず裏で起きている。そういう時こそ、新聞の隅から隅まで目を凝らし小さな小さな記事の中から真実を探り出しなさい。」
共に、今はどういう考えを持っているのか、機会あればまた知りたいものだ。