昨年のあの日以来、僕らを覆っている「情報の傘」がどれだけアーティフィシャルな、
からだやこころにとって良くないものかがわかった。
また、それらがどのように生産され、誰の利益になり、誰の利益にならないか
そんなことが毎日、わかってはぼけ、現れては消え、それらはこの国を覆う大海原のよう。
わたつみ、と昔から言ったけれども、国産み伝説(「海」=「産み」?)の時代も、また戦中戦後も、
こういった教訓がどれだけの期間、どれだけの人にとって役に立ったのかは、わからない。
きっとごく一部の人が、生き残り、歴史を自分の手柄のように記し続けてきたのだろう、とも思う。
たとえ日本の共有歴史であったとしても。
今の「情報のかさ」を見ると、そこまで悲しい気になる。
悲しみ、呆れ、怒り、哀れみ、侮蔑、危機感、無力感、
これらがにごったとき、現状維持と忘却と、転生輪廻がまた現れる。
「あらわれる」 「洗われる」
それでもうみは日本を包んでくれると思ってるのだろうか。
大地や海が怒ったとき、あるいは呼吸やくしゃみをした時、
あめが本当にふったとき
…
僕らは世界の東の果てにいる。
島と海を失えば何も残っていない。