投稿者: ray

構想と空想

ソロライヴ

何をやるか
構想中です

ふと名付けたタイトルに
素敵なフライヤーや
最近食べたもの
話したひと
けしき

発酵させてます

オリジナル
カバー
即興

メイン楽器は
アイコン写真の
アコースティック
ベースギターなのだ

とても小さな絵本屋さん
これも置けるかな?

ちなみに左下に並ぶ CD
誰でしょう

5.14 ガラスと木箱とことばたち

絵本の店キルヤ 14周年

ガラスと木箱とことばたち
– くうそうの音楽会 –

近藤零
ベースひきがたり
2023 5.14 sun

2ステージ(途中換気あり)
1st 14:00 〜
2nd 16:00 〜
入替制 各回10名

入場料 1,500円
(小中学生 1,000円、未就学児 無料 ひざの上)

ご予約はキルヤさんにて、メールまたは電話にて受け付けます。
お名前、ご希望の時間、人数と共にお知らせください。

会場
絵本の店キルヤ
https://kirja.exblog.jp/
ehonnomise.kirja@gmail.com
静岡県浜松市中区紺屋町300-10
053-477-2687
火水定休

* コロナウイルスの感染状況などにより中止・延期の場合があります。
* 各回途中、換気のために入口のガラスを開けます。

東行と音楽の部屋

矢野誠さんのリハーサルで、実に…ぶりに東京都内某所へ。

前回は大橋トリオの Tour 2020 東京公演
すなわち NHK ホール
全国のコロナ陽性者が初めて500人を越えた日だった。

そのまま東京には来れなくなり、我が道という名のクワランティンを続けたわけで

そんな僕に昨年、声をかけてくれた矢野さんとよーこさんには感謝のしようがない

アルバムは(そうは聴こえないと思いますが)僕だけリモート録音なので
実際にバンドで合わせられたのはこれが初めて。しかしそんな感じは全くしなかった。

ピアノを弾く矢野さんの、踊るような姿のおかげだろうか。

矢野さん、曲を合わせた後のコメントが毎回想像のはるかに斜め上で
いちいち、味わい深い。これを瞬時に理解できる人は…あまりいないんじゃない?

でも、何か、すごくわかるんですよね。
たぶんまだ、全然わかりきっていないけど、わかる気がする。
感覚が似ているんでしょうね。

ライブまであと10日。多くの人に観てほしい。聴かせたい。
この音楽を、矢野さんのピアノを、バンドや歌を、自分のプレイを。

一言でいえば、「楽しみだ」ということです。

4.25 ライヴ詳細はこちら


昔からそうなのだけど、僕はちょっと遠出したり
どこか普段と違うことをしていると、そっち方面の人から電話をもらうことが多い。

そういう相手はたいがい、SNS をしない、どっちかというとアナログな人たちなので
なんで僕が「動いている」ことがわかるのか、不思議なのだけど
これはそんなものか、とも思っている。

世の中にテクノロジーじゃ説明できないことっていっぱいあって
それはたぶん、虫の知らせとか集団意識とかシンクロニシティとか、
個にして全、みたいな

大きく俯瞰すれば、個々の人間の意識が誰かに飛んだりするのって不思議でもなんでもなく
むしろ、ネットやビッグデータはそれを真似しようとしてる人間の…AIの、まだまだ浅知恵なんだと思う。

ともあれ、なんとなく会えたらいいな、と思っていた人から
ピンポイントのタイミングで電話をもらい、実際に会えるのは
とても嬉しい。そんなわけで、駐車場に車を置いて髪を切って(ずっとセルフだったのでだいぶ切ってもらった)
リハに向かう合間に10分ほど、お店に寄れた。高円寺。

この界隈も3年以上ぶり。ほんとなら活動拠点にもなる筈だったのだけど。

でも、久々に会えたその人は相変わらずで、店には小さいながらもいい感じの舞台もあって
気さくな場所だった。また来れるだろうか。


リハの後はしばらくドライブして、小林創さんのご自宅に。

ずいぶん久しぶり。相変わらずのご活躍。カムカムエブリバディの劇伴の話から、スタジオ作りから、猫から、いろいろ話してあっという間に夜中。

僕とはだいぶ違うエリアで活動されてるけど、誰が見ても素晴らしいプレーヤー、音楽家。また観に行きたいし、機があればご一緒したい。

翌朝早く、横浜ギグにオルガン積んで向かう小林さんと、ベース3本積んで西へ戻る自分。

以下単文の備忘録。重複御免。


保護猫の偶然
一向に曲がれぬ道路
おどろきの高円寺
それぞれの音楽室

レッキングクルーが
くるーまで
車座するのみ
首都高速

ループジャンクション
超えたらなんてことない
記憶違いの英数文学

立て続けに停まるSAは
すべて同じ導線間取り
これじゃドライバー
永遠にリピーター

素敵なコンサート準備と
私的構想
Pink Moon ノボリオリ
下弦過ぎの帰還

はるのしょか

ちょっとした用で、久しぶりに名古屋に。

矢場町から栄まで少し歩いたのですが、緑、多いですね。
久屋大通公園というのか、その南側というのか。

最近整備されたという方? …じゃないっぽいので、あまり突っ込んだことは言えませんが
あれだけの高さと量の樹木を維持できているというのは、いいなと思いました。

北側がどうなっているのか、また次回歩いてみたい。


合間を縫って、今池へ。

3年半ぶりに寄れたリチル。
時間がゆっくり過ぎる場所に僅か10分ほどの滞在でしたが、とても満足。
空間が最高だし、珈琲もお菓子もさすがです。

前回来たのは、Carlos Aguirre 公演をボトムラインに観に来た2019年。彼の改造フレットレスベースと歌がすばらしくて。

Babi-Chan がこのエリアにないのが残念。いつか常滑行けるかな。


蜻蛉返りで別の用を済ます。難しい。日程がたてられない。

動きそうで動けないのはとてももどかしい。だけど地道に、準備をするのだ。

あみもののよる

どんなことをしていても、季節や年の移りが早いのは同じで

はや四月、もうすぐ満月、bandcamp Friday。明日、明後日。

しかし

計画はしていたものの、今月はどちらにも新作は出せなさそう。

春は忙しい… 例年よりは調子取り戻してますが、やんなきゃいけないこと多いんですよね。

ほんと、世界を覗くと、みんなの行動の速さ、高さ、長さに驚くばかり。

ところが、話を聞くとそれぞれ、ゆっくりマイペースだったりする。(あるいは極度の謙遜か)

折り重なって、密度が濃く見えるだけなのかな… 編みもののように。


今月は久々に東京でライヴに出ます。

4.25 南青山 Mandala
矢野誠「ミライノキオク」レコ発

矢野さんとふとしたことで知り合え、20年を経て作品に参加することができ、フルメンバーでのステージです。
当日の会場はもちろん、配信もされるので、遠方で来れない方もぜひご覧ください。

新作アルバムのリリパというのに、さらに新曲がいくつもあり…今年76を迎えられる矢野さん、相変わらず尖ってます。

そう、編みもの、というのは編曲家である氏のライフワーク「あむ」の語源でもあり。

どうぞ、お楽しみに。

ちょうど Stereo Sound Online にも記事掲載されています。


何をしようかと…思ってたかというと、ただの映像なんです。

打ち込みを使わず、一人で生音を重ねる、ということで行き着くとこまでやった Lapis Lazuli を出した後、
自分がずっとやってるのは、多重でもテクノロジーでもなく。

でもそれを伝えるって、ライヴでなければ、簡単なカメラ撮りに限る。一本マイクに限る。

しかし部屋が…荷物が片付かん…新年度で地域の配布物が…散髪が…音出せる時間帯がない…みたいな。
相変わらずうちの M3 カメラも調子がおかしいし、予定詰まってるし、明後日までには無理だわさ。たぶんね。

でも、近いうちにはやっていこうと思います。

この場合、何が編みものなんだろう。両手と4つの弦かな。


さて、そんな中…いや

明日か明後日まで温存しておきますかな。もうひとつの、編みもの。

皆様、よい夜を。

もう木曜になっちゃったけど、

僕らがみえない満月、あの人はきっとみてるよ。

翠玉の首輪

ここでこれから書くことに説得力を加えるために

たとえいいカメラを手に入れても役には立たない

写したいのは過去に見た、脳裏に鮮やかに映る光景だからだ。

カコカメラ

そんなものはない。少なくともあと十年は実用化されないだろう。

僕には、それを絵にすることもできぬ。

幸いネットには すでに共有されている幾多の写真や映像があるので

そこは追わないことにする。賑やかしぐらいは加えるかもしれないが。


オームステッドの伝記 を読んで、あれこれ考えている。
言葉にするのが難しいのだが、停滞しつづける考えを動かすために一部無理やり言語化する。

ここ数年のウラシマ期間を超え、自分にとって
今住む街からも、まして日本からも、気軽に出ていける時代は終わってしまった。

というか、それまでがラッキーすぎた。

これからも車や、ときに列車を使って、近くて遠い場所や
遠くて近い場所に旅をするかもしれないし
それは傍からは、軽いフットワークに見えることもあるかもしれない。

だがそれでも、今後の数年から数十年において
基本、拙者はローカルなおじさん、そしておじいさんとして過ごしていくだろう。

ワールドツアーをすることも、バレアレス諸島で詩にふけることも、NYC やパリのシーンで活動することも、

神戸や京都やボストンのような好きな都会で、創作しながら暮らすことも、まずないだろう。

つまり、今いる環境を素敵にしていくか、楽しんでいくしかない、ということだ。

田舎街での暮らしはいいものだが、触発してくれるものに限度がある。大いに。

自然は確かにある。足元をコンクリートで固められ、それでも静かに四肢を伸ばす動植物や土や水が。
励まされ、というより励ましたくなりながら、人気のまばらな、濃淡の少ない景色と共に生きている。

これでいいのだろうか。

ならば好きな自然って、たとえば街中の自然って、どういうものだろう。

街路樹も植え込みも、畢竟、街に飼われている装飾のひとつだ。
見ようによってはありがたいが、アリバイ、みたいに思えるときもある…そっちの方が多いな。

あ、いいな、と思う木々って少ない。何か抑えられている。

あ、いいな、と思う街中の自然って、ぽっとある、放置された丘や、竹藪だったりする。
結構本気で、癒される。

電車の窓から見える自然もそうだ。
朝、疲れて移動しているときも、数十秒だけ見える雑木林にエネルギーもらう。こういうのって大事だなぁ、ってずっと思ってる。

ところがそれらは、確実に買い取られ、消されてゆく。

丘ごと削られ、コンクリで固められ、砂利を撒かれ、洗いざらい植物が伐採され、宅地や工場に変わっていく。

日本にいったいどれだけ、そのような個性のかけらもない、退屈で心を押し込めるような街があるだろう。
同じチェーン店、同じ看板。同じ街路放送。

これでいいと、みんな本気で思っているのだろうか…?

工事の説明会とか行っても、噛み合わない。「基準」をクリアしてるか、経済的か(儲かるか)、金銭補償をするか、そんなのばっかし。

誰が掃除をする。散らかる土や木々に責任を持つ。不思議なことに、ある閾値を超えると、自然は「手入れが面倒」なものになるようだ。
部屋が散らかってる方が落ち着くと言ってた人が、片付け始めると気になってしょうがない、みたいなものか…?
判断のピボットが、コロっと変わってしまうんだろうか。

もう少し真面目に書くと、丘は災害時の土砂警戒区域にあたるから、削ることで警戒を解くことができる。云々。いいことのように聞こえる。
んー、なんかおかしくないか?

自然の丘が警戒区域にあたるのではなく、そもそも周りを削り木を切ったからから崩れやすくなって、石垣やコンクリで止めているのでは。
今度はそれを取り繕うように、全体を削る。やがて丘をなくす。樹木を適切に維持する金もないから、無くしてしまえ。
…?

これは一例。おそらく全国的に、ちょっといい片田舎の風景も、数年から数十年のスパンで平坦化され、蝕まれていく。

僕の田舎だった忍者の里でも、子供の頃はカブトムシがいっぱいいた雑木林や、謎めいた山林が、かなり削られている。
たまに通ると寂しい。現地の人々は「開けた、ニンニン」と思っているだろうか。


オームステッドの伝記では「セントラルパーク」にとどまらず、さまざまな事業への関わりとその前後の人間模様、いざこざ、根回し、などなどが描かれている。計画通りに施工されることはあまりなく、承認されても途中で中断したり破棄されたり、権力者が変わったり、追い出されたり、まぁうまくいかない。

あぁ、実際はアメリカもそんなんだったのか、とか、我が強いアメリカ人同士だからよけいにいざこざばっかりだったのだろうな、とか、理想と現実の違いを見せつけられるようだ。

あるいは、うまくいかなくても気を長く持つとか、諦めないとか執着するとか、倍返しとか、汲むべきはいろいろあるのだろう。

この方、ワーカホリックで何度も鬱病になっているし、最期は自らが敷地をデザインした精神病棟に5年も入っている。成し遂げるって簡単にはいかない。外からは大きな実績に見えたこと、傍から見ても捻じ曲げられたことを含めて、本人が抱え込んだ挫折感ってどれほど大きかったのだろう。


僕はかつて、彼の作品のひとつである公園で、なにも知らずに癒されていた。

セントラルパークではなく、ボストンの「エメラルド・ネックレス」公園群のひとつ、「バックベイ・フェンズ」である。

レッドソックスの本拠、フェンウェイパークの近くからボストン美術館に至る一帯。音大時代このあたりにアパートを借りていた。居候したりシェアしたり…転々と。
この先にもフランクリンパーク、ジャマイカプレイン、彼の名を冠したオームステッドパークなどたくさんの公園が連なり、ネックレス状のパークシステムを形成しているのだが、ベースを背負うか転がして歩くぐらいの行動範囲の僕は、南にはなかなか足を向けなかった。
…ジャマイカプレインあたりには、地名に寄せられたか夏の間レゲエシンガーが住んでいて、呼ばれてリハに通ったっけ…余談

いつも歩いていたこの公園は、単体でも広大であり、とにかく美しかった。
わざとらしさがなく、こんな表現はすごく IQ が低そうだが「自然」な「自然」なのだ。同語反復というやつか。

ボストンのバックベイというところは一応都会なのに、そこから一歩先に、こんな「自然」がすっと広がっていることに驚いたし、慣れてからはずっと幸運を感じていた。すてきだった。どれだけインスピレーションをもらったか、わからない。

だがこれは、人工の自然だった。Artificial Nature とでもいうのだろうか。
オームステッドはチャールズリバーを埋め立てた干潟の水捌けの悪さ、汚泥や悪臭などの問題に着目し、配管敷設で対処。さらに塩生湿地生態系をエミュレーションして設計し、ボストン市当局と折衝しながら、長い間をかけて施工させたのだ。

ボストン市はかつて、港湾にうかぶアイランドのようなものだった。埋め立てを繰り返して広がる都市計画の中で見出した、ロングスパンの賢い答え、だったともいえる。

そしてオームステッドは、エメラルドネックレスの外側の街ブルックラインに、緑に覆われた自宅兼事務所「フェアステッド」を構える。ここでシカゴ万博やベルアイル、ビルトモアなど全米の数多くの案件を手がけ、次世代に引き継いだ。


自然と人工物。そこには常に対立がある。

果たして人間に自然を「つくる」ことなどできるのか、そんな権利などあるのか?
というところまで、割とずっと考えている。3.11以降。

津波と原発事故以降、なにをやるにしても、自然に対する畏れを忘れてはいかん、と肝に命じるようになったし、諸行無常、この世は借り物、とも思っている。

だから、モノに対する所有欲がそれ以降かなり少なくなった。
コロナ後は機材もだいぶ断捨離した。シンセベースもサイレントベースも。使わないし。基本生音なので、ペダルなどももう少し手放すことになるだろう。by the way…

でも、ならば「欲しがりません」の人や街がいいのか?

ボストンの成り立ちで見ても、そもそも埋め立てで街を作ることの是非。この時点でかなりの自然破壊が起こっている。
一方、そこからうまくパークシステムと街をつくったことで、長い時の流れに耐える、魅力的な都市環境ができている - 塩水から真水に湿地帯の生態系が変わっていったことまでは読めなかったようだが。
そして、年月を経て懐かしく思う異国人がここにいる。

もう一つ、トリッキーなのは

欲しがらない人は、人のいうことをよく聞く。人に譲歩するから、結局、利を得たい人の餌食になってしまう。
或いは、頑固に踏みとどまったとしても、周囲に理解されず、よくて世代限りで更地にされてしまう。
あるいは、自然そのものに飲み込まれる。そこには人の立場や力の区別はない。

さて、自然と人間って、なんだろう。
僕らは共存するのだろうか。対立あるいは騙し合うのだろうか。

風呂敷広げて畳めなくなったので、続きは次回。

それはそうと、これらのページなかなかよかったです。響きました。

十九世紀 北米への旅

フレデリック・ロー・オームステッドの伝記を読了。

五百頁、二段組はさすがに時間がかかった。

膨大な登場人物を把握するだけでも、
あと二周は必要かもしれない。

都市と田舎と自然をつなぐ空間構築(いわゆるランドスケープデザイン)
そしてその代表として、マンハッタンのセントラルパークが主題。

とはいえ、この人の背景や仕事の変遷もあって、
米国史、奴隷制と南北戦争、労働環境、議会や富豪、パワーゲーム、農林業、出版、教育機関、本人や家族の成長記、さらに肉体と精神面にかかる介護や医療も含む、壮大な記録。

示唆が多すぎるほど。
二十一世紀においても。おそらく多くの人にとっても。

オームステッド セントラルパークをつくった男
Witold Rybczynski 著/平松宏城 訳

山の入り口のクローバー

日曜。昨夜ふと思いついて少し長旅。

コロナで世界が閉じる直前、京都で会ったお二人に、会いにいく。

2020.2.16. 紫明会館で タイナカ彩智さんの live を手伝った日の夜。これ以来、僕は第三の故郷、京都に行けていない。

とはいえその二人は京都人ではない。イスラエル生まれで東京で活動するギタリスト、山口亮志さんと、浜松育ちで京都在住のアーティスト、内田涼子さんだ。

内田さん(うっちー)は、2000年前後からの知り合いで、ライヴやイベント、ジャケットアートワークなどで本当にお世話になった。再生できるかわからないが、このサイトにこっそり残しているこの作品も彼女と僕のコラボである。

いんちきピストル

山口さんと会うのはまだ2度目。とはいえこういうのはタイミング。
はちみつやさんで演奏をしているしベースもあるので、よかったら…との誘いに、ドライブで出掛けていった。


大きな橋を越えると別世界。

天竜二俣というところは初めてだが、不思議な活気のある界隈だ。デジャブ? どこと?

養蜂屋 というお店もとても開放的な空間で、お二人とのコラボによるミードも素敵だった。

向かいにある包商店というジェラート屋さんはなんだか Johnbull みたいな佇まいだ。

きころという、道の駅みたいな場所もある。和むし、訪問者には心強い。

ベースをお借りし、途中から二人でいくつか即興をする。

1月に、ちょうど2年ぶりに人前で演奏(ほぼ「流し」)をやったが、

それとは真逆だ。なんでもあり。間。軋みとひびき、箱と太鼓。

2005年ごろになるか、gt / a.sax / dr / e.bass の4人でフリーばかりをやっていたときがある。

形には残らなかったがバンド名すらあった。gt は京都で、sax は東京で大活躍のはず。dr は永遠の夏休み。

主に The Room 界隈。ピットインや O-East でもやったっけ。

その他にも、そもそも このアルバム も最小限のモチーフ、中身はほぼ即興だった。

「かずみとまや」を手伝ったツアーで、金沢のもっきりやでやった即興も、記憶に残ってる。

即興が記憶に残るべきなのかどうかは、あまりわからない。ともかくここ数年は、コロナ前でもあまりインプロをしなかったし、一連の DIY はソングフォーマットというお題でやっている。何か不思議だ。

扉はどこでも開くんだなぁ、捉え方次第かなと思いつつ、お二人や店長と色々、街の人々と少し話して帰路につく。
もっと話したかったのだけど。皆さんもてなしの達人で、こちらは言葉があまり出てこない。

いろんなことがある。教えてもらった道具や街の人の活動、森の入り口、森の奥にある養蜂場、歌舞伎、演劇、かつてコーヒーケトルを注文した場所(もうその店はなく、別の素敵な店になっている)。

何かできないかな、と思いつつ、筆記体的に遠回りをし、ぐる〜っと水辺を回って、夜の地球へ。

樹木的時間

三月も 半ばを過ぎる

日々 忙しく 充実していないわけではないが

やるべきことの半分も できていない

壁に貼った 自転車に またがる自分の

空想に 託してみたいが


子供の頃 年上の人たちに

長いスパンで物事を考えろ 6年後 12年後 20年後を考えろと言われ

どうしてもそうなれなかったのを ふと思い出す

そんな先のことなどどうしてイメージできる 今以上に重要なことがあるか

など考えていたのだと思う

“Don’t trust over Thirty” や「人間五十年」を 半ばマジに信じていたこともある

その頃のことの良し悪しはともかく 今ようやくにして

図らずも 長いスパンでしか時を捉えられなくなってきたようである

つまり こちらが1ヶ月ぐらいに感じていることが実際は3ヶ月

1年が3年…

まぁ それもまた よしかもしれない


ページの非常に多い本を先日から読んでいる これまでなら放り出したぐらいの文量なのだが

これはと 時間をみつけては読み進む

漸く 残り50頁ほどになった

後半になるにつれて 実際に自分が歩いていた 湿地公園の景色が思い出され

中断しなくてよかったと思っているところである


先ほど書いた「敦盛」は

「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」

ということで 昔思い込んでいたものとは 意味が違うようだ

さすれば

平敦盛や 織田信長 今川義元の時代の寿命を大きく超えた 現代では

いや この尺を引き延ばす というよりも

じんかん ごじゅうねん をこえれば

かてんに ちかづく のかもしれない

たとえば じゅもくのじかんが すこしは わかるのかも しれないな

くびながりゅうとゆびさき

雪でも降るのかという夜の匂い

船乗りを思う

彼らが当たり前に感じていた凍つく風に

耐えられるだろうか

眠っても目覚めても続く風


首の長さ

こう書くとろくろ首か恐竜か…

って感じだが

弦楽器のことだ

ベースにはさまざまな長さのネックがあり

また横型の「ベース・ギター」タイプであれば
ブリッジの位置や仕込み角、重心でも体感上の長さは変わる

たとえば今年になってずっと触っているアコースティックベースギターは
(これはもうとっくに生産中止になり、世界でも入手が困難だ。メンテしてくれる人を探さねばならない)

ものすごく左手を伸ばさないとローポジションに届かない。
これはこれで慣れれば、身体を大きく開くことになるので、気持ちいい。

ところがその後で普通のエレキベースギターを弾くと、あまりの小ささに驚く。
ギターを触ろうものなら、小さすぎてたまげる。

同じことが縦型のベース(コントラバス、ダブルベース、ウッドベース、弦バス、アップライトベース、ベースフィドル – 呼び方がありすぎるが僕は英語の「ダブルベース」が好きだ)にもあり、あの指の間隔とヴァイオリン(フィドル)のそれではあまりに違って、互いに指がたまげてしまう。

一年ほど、これらに地道に向き合っているが、なかなか人間の身体の使いこなしは
難しいやら発見があるやら

指っていつまで、こうして酷使してられるのかな、
あたりまえみたいに10年近くタイプし続けてるこの薄型キーボードも、そろそろ
もう少し身体に合ったものにした方がいいのかもしれない。

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