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ガラスのジゼル


ベアトリーチェ・アレマーニャさんの描いた「ガラスのジゼル」

5.14に絵本の店キルヤで行ったライヴでは、この絵本を二部で演りました。

今日はこの本について記し…ますが、背景としてもう一つの本に触れねばなりません。

キルヤさんでライヴするにあたって、僕はこのお店の棚の最上段に鎮座しているひとつの絵本がどうにも気になっていました。


「カール・イブー」

存在感ありすぎの帽子と髭。それと対極にあるような「・・」の目。
カナリアイエローってこれなんだぜ、と誇らしげな小鳥。

以前(数年前)、キルヤ店主ののりこさんとの会話

「これって売り物じゃないですよね」
「はい」

小心者の僕はそれ以上なにも聞けなかったのですが、
今回勇気を出して読ませてもらって、おぉ! と心持ちが変わりました。

「すべてが嫌いな男」であるカール・イブー。
これ以上の内容には触れませんが、そうくるか、と。

ライヴをやるかで逡巡していた僕の、肩を押してくれたのがこの作品です。

さて、ではこの作者さん、他にどんな作品をかいているんだろう、と発見したのがこの「ガラスのジゼル」です。
といってももうとっくに廃刊され、日本版の出版社 も15年前に倒産しています。

それでも、何かただならないものを感じ、古本を探し出すが早いか、イベント名を
「ガラスと木箱とことばたち – くうそうの音楽会 -」にしました。
この名前をのりこさんが大変気に入ってくれたことから、ライヴが形になっていくのです。

出版社の名前は「編集工房くう」
絵本のシリーズ名は「くうの絵本箱」

これもひっかかりました。なにしろ
(…それはまたの機会に)

さておき、絵本そのものに戻ります。

この日本語版は2005/1/1に発行されました。読んでみるとすぐ、隙き紙やコラージュを駆使したそのページの美しさに圧倒され、途中の展開にも驚くのですが、最後に「あれ?」ということになります。

こんな終わり方…?

敢えて記しませんが、当時もいろいろな反応があったようです。

で、僕は今回、これは外国語版にあたってみようと、いろいろ調べました。

ライヴでもう一つ取り上げた “Where the Sidewalk Ends” を英語版から訳したように
英語の絵本って、訳するのが楽しいのです。日本語訳をした人がどう捉えたかも、追体験できる。
(フランス語やイタリア語は、翻訳サイトの力を借りないと理解できません)

海外の YouTube には、「絵本の読み聞かせチャンネル」があるんですね。これがとても参考になりました。

すると! なんと英語版 “Child of Glass” やフランス語原版 “Gisèle de Verre”、イタリア語版 “La Bambina di Vetro” では、結末が全然違っていたのです。少なくとも、現在出版されているものでは。

ということは、日本語版では敢えて訳を変えたか、間違えたか、最近の改訂(2019らしい)で内容が変わったか。
こだわりの強い「編集工房くう」さんが間違ったとは考え難いです。

ベアトリーチェさん本人の気が変わったのかな…
ここはまだわかりません。知ってる方、おられたら教えて欲しいです。
というか、ご本人に訊いてみようか、勇気を出して。


さて、そんなわけで今回のライヴで、この本を僕のベース音楽と共に実演しました。

我ながら、面白いものになったと思います。とてもいい反応がもらえました。

「ガラス」を表現する一環として、譜面台をアクリル版で工作し、絵本を置いています。
これをめくりながらできれば、もっとよかったんだけど…

読んだ内容は、声にするときのテンポもあり、途中からところどころ言い回しを変えました。

そして結末については、今出ている英仏伊版を踏襲しました。より「レジリエント」になっています。

それにしても、「ガラスの子は、頭に浮かべたことがすべてガラスの頭部に映し出され、誰からも思いを隠すことができない」というのは、2005年当時よりも今になって、さらにリアルな状況になっていると思います。

誰もがスマホ越しに人の情報を集め、端末のこちらとあちら側にある二つのガラスを通してコミュニケーションする世界。

「安全に、すべてが覗ける」と錯覚している人類。

何も隠せない、あるいはすべてを自発的に宝箱に書き込む人たち。それはすべての人に筒抜けになり、ビッグデータとしてサーバーに吸われ、AIに活用されていく。

誰もがガラスのジゼルなのです。

24/7の監視社会にあって、自分を保つことってむずかしい。
たとえ割れないにしても、一度もヒビの入ったことのない人って、いるのかな?

これから僕たちは、どうやって生きていくでしょう。

ひとりひとりが、システムを作り操っている側が、共に考えていくべきこと。
考えてもわからない、それでも、心にとめておくこと。

翠玉の首輪

ここでこれから書くことに説得力を加えるために

たとえいいカメラを手に入れても役には立たない

写したいのは過去に見た、脳裏に鮮やかに映る光景だからだ。

カコカメラ

そんなものはない。少なくともあと十年は実用化されないだろう。

僕には、それを絵にすることもできぬ。

幸いネットには すでに共有されている幾多の写真や映像があるので

そこは追わないことにする。賑やかしぐらいは加えるかもしれないが。


オームステッドの伝記 を読んで、あれこれ考えている。
言葉にするのが難しいのだが、停滞しつづける考えを動かすために一部無理やり言語化する。

ここ数年のウラシマ期間を超え、自分にとって
今住む街からも、まして日本からも、気軽に出ていける時代は終わってしまった。

というか、それまでがラッキーすぎた。

これからも車や、ときに列車を使って、近くて遠い場所や
遠くて近い場所に旅をするかもしれないし
それは傍からは、軽いフットワークに見えることもあるかもしれない。

だがそれでも、今後の数年から数十年において
基本、拙者はローカルなおじさん、そしておじいさんとして過ごしていくだろう。

ワールドツアーをすることも、バレアレス諸島で詩にふけることも、NYC やパリのシーンで活動することも、

神戸や京都やボストンのような好きな都会で、創作しながら暮らすことも、まずないだろう。

つまり、今いる環境を素敵にしていくか、楽しんでいくしかない、ということだ。

田舎街での暮らしはいいものだが、触発してくれるものに限度がある。大いに。

自然は確かにある。足元をコンクリートで固められ、それでも静かに四肢を伸ばす動植物や土や水が。
励まされ、というより励ましたくなりながら、人気のまばらな、濃淡の少ない景色と共に生きている。

これでいいのだろうか。

ならば好きな自然って、たとえば街中の自然って、どういうものだろう。

街路樹も植え込みも、畢竟、街に飼われている装飾のひとつだ。
見ようによってはありがたいが、アリバイ、みたいに思えるときもある…そっちの方が多いな。

あ、いいな、と思う木々って少ない。何か抑えられている。

あ、いいな、と思う街中の自然って、ぽっとある、放置された丘や、竹藪だったりする。
結構本気で、癒される。

電車の窓から見える自然もそうだ。
朝、疲れて移動しているときも、数十秒だけ見える雑木林にエネルギーもらう。こういうのって大事だなぁ、ってずっと思ってる。

ところがそれらは、確実に買い取られ、消されてゆく。

丘ごと削られ、コンクリで固められ、砂利を撒かれ、洗いざらい植物が伐採され、宅地や工場に変わっていく。

日本にいったいどれだけ、そのような個性のかけらもない、退屈で心を押し込めるような街があるだろう。
同じチェーン店、同じ看板。同じ街路放送。

これでいいと、みんな本気で思っているのだろうか…?

工事の説明会とか行っても、噛み合わない。「基準」をクリアしてるか、経済的か(儲かるか)、金銭補償をするか、そんなのばっかし。

誰が掃除をする。散らかる土や木々に責任を持つ。不思議なことに、ある閾値を超えると、自然は「手入れが面倒」なものになるようだ。
部屋が散らかってる方が落ち着くと言ってた人が、片付け始めると気になってしょうがない、みたいなものか…?
判断のピボットが、コロっと変わってしまうんだろうか。

もう少し真面目に書くと、丘は災害時の土砂警戒区域にあたるから、削ることで警戒を解くことができる。云々。いいことのように聞こえる。
んー、なんかおかしくないか?

自然の丘が警戒区域にあたるのではなく、そもそも周りを削り木を切ったからから崩れやすくなって、石垣やコンクリで止めているのでは。
今度はそれを取り繕うように、全体を削る。やがて丘をなくす。樹木を適切に維持する金もないから、無くしてしまえ。
…?

これは一例。おそらく全国的に、ちょっといい片田舎の風景も、数年から数十年のスパンで平坦化され、蝕まれていく。

僕の田舎だった忍者の里でも、子供の頃はカブトムシがいっぱいいた雑木林や、謎めいた山林が、かなり削られている。
たまに通ると寂しい。現地の人々は「開けた、ニンニン」と思っているだろうか。


オームステッドの伝記では「セントラルパーク」にとどまらず、さまざまな事業への関わりとその前後の人間模様、いざこざ、根回し、などなどが描かれている。計画通りに施工されることはあまりなく、承認されても途中で中断したり破棄されたり、権力者が変わったり、追い出されたり、まぁうまくいかない。

あぁ、実際はアメリカもそんなんだったのか、とか、我が強いアメリカ人同士だからよけいにいざこざばっかりだったのだろうな、とか、理想と現実の違いを見せつけられるようだ。

あるいは、うまくいかなくても気を長く持つとか、諦めないとか執着するとか、倍返しとか、汲むべきはいろいろあるのだろう。

この方、ワーカホリックで何度も鬱病になっているし、最期は自らが敷地をデザインした精神病棟に5年も入っている。成し遂げるって簡単にはいかない。外からは大きな実績に見えたこと、傍から見ても捻じ曲げられたことを含めて、本人が抱え込んだ挫折感ってどれほど大きかったのだろう。


僕はかつて、彼の作品のひとつである公園で、なにも知らずに癒されていた。

セントラルパークではなく、ボストンの「エメラルド・ネックレス」公園群のひとつ、「バックベイ・フェンズ」である。

レッドソックスの本拠、フェンウェイパークの近くからボストン美術館に至る一帯。音大時代このあたりにアパートを借りていた。居候したりシェアしたり…転々と。
この先にもフランクリンパーク、ジャマイカプレイン、彼の名を冠したオームステッドパークなどたくさんの公園が連なり、ネックレス状のパークシステムを形成しているのだが、ベースを背負うか転がして歩くぐらいの行動範囲の僕は、南にはなかなか足を向けなかった。
…ジャマイカプレインあたりには、地名に寄せられたか夏の間レゲエシンガーが住んでいて、呼ばれてリハに通ったっけ…余談

いつも歩いていたこの公園は、単体でも広大であり、とにかく美しかった。
わざとらしさがなく、こんな表現はすごく IQ が低そうだが「自然」な「自然」なのだ。同語反復というやつか。

ボストンのバックベイというところは一応都会なのに、そこから一歩先に、こんな「自然」がすっと広がっていることに驚いたし、慣れてからはずっと幸運を感じていた。すてきだった。どれだけインスピレーションをもらったか、わからない。

だがこれは、人工の自然だった。Artificial Nature とでもいうのだろうか。
オームステッドはチャールズリバーを埋め立てた干潟の水捌けの悪さ、汚泥や悪臭などの問題に着目し、配管敷設で対処。さらに塩生湿地生態系をエミュレーションして設計し、ボストン市当局と折衝しながら、長い間をかけて施工させたのだ。

ボストン市はかつて、港湾にうかぶアイランドのようなものだった。埋め立てを繰り返して広がる都市計画の中で見出した、ロングスパンの賢い答え、だったともいえる。

そしてオームステッドは、エメラルドネックレスの外側の街ブルックラインに、緑に覆われた自宅兼事務所「フェアステッド」を構える。ここでシカゴ万博やベルアイル、ビルトモアなど全米の数多くの案件を手がけ、次世代に引き継いだ。


自然と人工物。そこには常に対立がある。

果たして人間に自然を「つくる」ことなどできるのか、そんな権利などあるのか?
というところまで、割とずっと考えている。3.11以降。

津波と原発事故以降、なにをやるにしても、自然に対する畏れを忘れてはいかん、と肝に命じるようになったし、諸行無常、この世は借り物、とも思っている。

だから、モノに対する所有欲がそれ以降かなり少なくなった。
コロナ後は機材もだいぶ断捨離した。シンセベースもサイレントベースも。使わないし。基本生音なので、ペダルなどももう少し手放すことになるだろう。by the way…

でも、ならば「欲しがりません」の人や街がいいのか?

ボストンの成り立ちで見ても、そもそも埋め立てで街を作ることの是非。この時点でかなりの自然破壊が起こっている。
一方、そこからうまくパークシステムと街をつくったことで、長い時の流れに耐える、魅力的な都市環境ができている - 塩水から真水に湿地帯の生態系が変わっていったことまでは読めなかったようだが。
そして、年月を経て懐かしく思う異国人がここにいる。

もう一つ、トリッキーなのは

欲しがらない人は、人のいうことをよく聞く。人に譲歩するから、結局、利を得たい人の餌食になってしまう。
或いは、頑固に踏みとどまったとしても、周囲に理解されず、よくて世代限りで更地にされてしまう。
あるいは、自然そのものに飲み込まれる。そこには人の立場や力の区別はない。

さて、自然と人間って、なんだろう。
僕らは共存するのだろうか。対立あるいは騙し合うのだろうか。

風呂敷広げて畳めなくなったので、続きは次回。

それはそうと、これらのページなかなかよかったです。響きました。

るいをよもう 23

ふと、宿場町で入ったカフェで興味深い書籍を見つけ

購入する。

壁際の小さな机を陣取った、とても分厚い、辞書のような本だが
その佇まいが読ませようとしてくる。なぜだろう。
しかも、その一角をよく見ると…

僕は昨年一年、ほとんど本を読まなかった。
ベースにほぼ触らなかった、人にほぼ会わなかった、だけではない。

radio sakamoto のアーカイブを聴きながら「秋には読もう」と嘯いていたのも束の間のこと。気がつけば冬も終わる。

かわりに、いくらか頑張って楽譜を読んだ、が。

そろそろ読み出したくなっている。

まだ読めていなかったタルマーリー渡邉格さん、麻里子さんの二冊目の著書
『菌の声を聴け』
を漸く買うことができた。こちらは昨夜一気読みしてしまった。

格(イタル)さんは文才もあり、何より生き方が型破りなので、すいすい読めてしまう。
(あとから聞くと、だいぶ麻里子さんの推敲も入っているらしい。たしかに女将は人に伝える達人でした)

那岐の古い保育園を改装したすてきなパン屋さん、タルマーリーは
今や地域と自然循環の旗手でもある。もちろん彼らだけがやっているわけではない。
スタッフ、地域の人々、そして全国の人々が、農薬や肥料に頼らない食料の生産と供給のため、尽力している。

時はたち、その保育園で食べることももうできなさそうだが、彼らは彼らの宿場町で、先をいく。

一方で、一回の空中農薬散布や、一瓶のラウンドアップは、どれだけ本来の自然を破壊してしまうだろう。
田舎や地方都市にあっても、この一瞬も山は削られ工場となり、海岸は埋め立てられていく。

個人や零細、中小企業のやっていくことを、行政や大企業は助けることもできるし
一気にぶち壊すこともできてしまう。
太古からずっとそうであったし、今はよりそれをはっきりと感じ取れてしまう。
「どちらもできる」ということが「力」なのだろうか。人は「力」をどうして持ちたがるのだろう。なにが「突破力」だよ。

ともかく、力が好きじゃない僕は、力を持つことも、持つために立ち回ることも苦手だ。

「戦わないための力」というのは、政府の詭弁だけじゃなく、個人にも当てはまるのだろうけど、

どうしていいか、未だにわからない。

だがそれとは別に、力を発揮している個人や面白いことをやる企業には、やはり惹かれるものがあるし、応援したくもなる。それは自分がそうならない = けしてなれない、からでもあるのかな。

ともあれ。

分厚い本、少しずつ読んでいる。あるアメリカ人の生い立ち、地域や人々の歴史的背景、事細かに記されているのでとても時間がかかりそうだが、これはしっかり読破したい。

MBP の電池が切れるので、これまで。

2月が終わる。

make diamonds out of halves

今日は二月の半分なんですね

ハートを二分割という意味では
よいのかもしらぬ

下弦の月が見えぬ夜
二○二三

104でみつかったぞ

ちょうど2年ぶりに人前で演奏しました。

タイムテーブルのないイベントで、もともと出演する予定でもなかったから、
逆に場繋ぎが必要で、終わってみればたくさんやることに。
…というか、たくさんやらせてもらいました。

1st – solo
あかりをつけたら II
Little Italy (Stephen Bishop)
みつかったぞ
Morning Dew

2nd – duo with Motomitsu Maehara
小さなぞうのワルツ (Moto)
Lapis Lazuli III
C’est si bon
Rydeen (Yukihiro Takahashi)
Sympathetic
Danseuse sous le pont (Moto)

3rd – solo
よこくの太陽
Marquee Moon (Tom Verlaine)

4th – solo
Quick & Slow
Rio

5th – solo ~ duo
Q-Atlantis
Atto Iu Ma Ni (with Moto)

そして、ウクレレののりこさんを交えて、6thも。おられた方はご存知だと思います。

ニューアルバムや Moon x Moon 時期の曲を交えながら、
結果的には、カバーを結構やったのです。が
“Rydeen” は、モトくんのリクエストで、アコーディオンとウクレレでやる、という話が沸き起こっていたので
ベースで加わることにしました。あのベースラインは子供の頃から身体に入っているし、真逆の編成だから、曲の良さを再確認できます、よね。

“Little Italy” はずっとやりたかったのですよ。昨年の前半はずっとアルバム Careless を聴いていたし。
Larry Carlton と(確か)Stephen 本人のギターの重なりがきれいで、メロディは極上で、Chaka Khan はすばらしいけど唐突な気がして、その後の展開は正直よくわからなくて(Pupa の dreaming pupa はこの曲を素敵に再解釈してるな、とは思った)

そんなわけで、それらをベースと歌だけにすると、結構楽しいのです。
この曲は何度でもやりたいので、機会をくださ〜い。

“Marquee Moon” については、下の日記に書きました。

いろいろ感じ、思いましたし、自分のスイッチもコロコロ入れ替わりましたが

一言でいうなら

やってよかった。です。

どうもありがとう。

the embrace of life

Jeff Beck に、ユキヒロさんに、

近隣のお花屋さんに …と、遠くでも近くでもショック続きなのですが

よりによって。イベント中に。

京都からの方に教えてもらったのは、Television のボーカル、Tom Verlaine の訃報でした。

3年2ヶ月ぶりの Marquee Moon。すぐにステージがあったので、やりました。
今回は、ルーパーもなく、Taylor 一本だけで。

墓地から来たキャディラックが彼を連れてこうとしたとき、彼は降りたはず。
今度は乗ったということなのか。

He said “Look here junior, don’t you be so happy
And for Heaven’s sake, don’t you be so sad”

前回の動画。今回は録ってないです。

… 鈍感な僕はいまごろ気づいたんですが、Television = TV って、Tom のイニシャルかけてたんですね。

あみとまき

短いロールカーテン
短い足の犬

コーヒーショップのカウンター

正確には「カウンター」ではない
そちらは感染対策で閉じられてる

窓側の「カウンター」だ
ややこしい

言葉の意味って変わっていくなぁと思いながら

ファンクとスカとハードロックかけてるこの鮮やかなコーヒーショップに久しぶりに

30分ほどいるだけでいい体験ができる

そして座った窓側カウンターには
当然窓があるわけで

その窓はとても低く
だが効果的に明かりが入ってきて

外景が切り取られている

よくみると低い窓をさらに削るがごとく
枠の上端にはロールカーテンが巻かれており
残りの少ないクッキングシートのよう

なぜだかコーギー犬を思い浮かべる

さてロールカーテンは降りていないわけだが

木漏れ陽が網戸で面白い反射をしている

揺れる戸外の枝葉と網戸の影が絶妙にずれている

こんなことで世界が違ってくる
なんか コーヒーと相まって 頭冴えてくるんだよな

これは想定してのことだろうか?

網戸といえば、劣化で破れた網戸というだけなのに
客船の模様に見えるという写真が、先日出回っていた。

意外なところで僕らを騙してくれる スクリーン

映画と同じですね

「芋虫が蝶になる」

昨年はこれなかった山で
しばしば書を読む


Spectator (2011.11)
これからの日本について語ろう

ハートに
刺さる
読むべし

今の自分は 菅原文太さんに向き合えるのかと
いや なにいってんだ

会ったこともない人を
シンボルにするのは甘え

だが 彼の記事に記されていることは
北沢夏音さん…にもお会いしたことはない…の執筆内容ふくめ
何層にも 届いていたはず
とどくはず

いや つながりのない人からのメッセージが
届くからこそ意味があるんだよな

正木高志さん 尹美恵さん 藤原辰史さん

ともかく

この時点から 10年後の未来の日本人 に捧げた
数々のメッセージは

ほぼ 完全に 裏切られている

悲しい や 腹立たしい では済まされない気持ち

でも これからを 向かなくてはならない


今日も jazz の燈

の下で

芋虫は蝶になったか

いもむしはいもむしで
いもむしでいもむしで
ちょうでいもむしで
いもむしでいもむしで…ちょうで…

勘違いから生まれる真実

自動字幕の世界というのは
相変わらず面白い

今日から放映されている反田恭平さんの CM

いいこと沢山言っているので YouTube でキャプションを出す

「一生自分のお父さん探していくのが」
「くすぐるな燃え上がれ これは知恵方法の言葉なんですけど」

共に AI 字幕の空耳だが
あながち間違いともいい切れない

一応、彼の言った言葉は

「一生自分の音を探していくのが」
「くすぶるな燃え上がれ これはチェーホフの言葉」

なんです
けど

「音」 は確かに 「お父さん」 かもしれないし
「チェーホフ」 は 「知恵方法」とか「知恵豊富」 言われても なるほろなと

ちなみにサッポロの CM です

ビール呑まなくなって久しいなぁ…

ガージェリーにヤッホーにベアードにタルマーリー。
たくさんのんだもんだ。今はシュトーレンで酔っ払うぐらいだよ。

緑の珠

プチトマト。プランターから。

大晦日にこの写真って、季節感がさっぱりわからないが、
部屋の中でやがて赤くなっていく…らしい。

このトマト、どこからきたものか辿ると
どうやら この日記 から繋がっていた。

昨年の初夏に飼っていたノコギリクワガタ、その命を奪った「熟しすぎたトマト」
それをクワガタと一緒に埋めておいたのが、いつのまにか芽を出し葉を出し、蔓を伸ばし
気がつけばこんなことになっていた、という次第。

命の循環って不思議だ。

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